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大阪地方裁判所 昭和32年(わ)952号 判決

被告人 北野秋男

主文

被告人を罰金一万円に処する。

右罰金を完納しえないときは金五百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は昭和十五年より南海電気鉄道株式会社に勤務し、同十九年より電車運転の業務に従事して来たものであるが、昭和三十一年一月一日午前四時三十分頃右業務上南海本線上り急行一番電車である荷物車第二六〇〇号を運転して住之江車庫を発車し難波駅に向け時速約六十五粁にて進行し、同四時三十五分頃同線岸の里駅を通過して間もなく大阪市西成区千本通一丁目二番地先天下茶屋一号踏切の手前に差掛つたのであるが、同踏切には警報機の設備はないが遮断機が設備されていて右始発電車よりその通過の際は踏切警手が遮断機を降して通行の車馬を遮断すると共に白燈を振つて電車に危険のないことを合図することになつているためその合図のないときは踏切警手が遮断機を降ろすことを忘れていること多く従つて通行の車馬も電車の接近に気付かずに横断しこれに接触することがあり得るのであるし、特に夜間に於ては遮断機の状態は確認し得ず僅かに右合図にのみ頼らざるを得ない状態であるから電車運転者たる者は右合図の有無を確認しその合図のないときは単に警笛を連鳴するだけでなく該踏切上を横断せんとする車馬との接触事故を未然に防止し、止むをえない場合であつてもその被害を最少限度に止どめるよう適宜の判断によつて減速して進行すべき業務上の注意義務があるにも拘らず、該踏切の手前約三百三十米の地点において該踏切警手よりなさるべき筈の前記合図がなされていないことに気付きながら単に警笛を数回吹鳴したのみで減速せずそのままの速力で漫然該踏切に迫つた過失によつて同日午前四時三十六分頃偶々電車の接近を知らず西より東へ向け該踏切を横断せんとして踏切上に進み出た乗用自動車に右電車を衝突させ因つて同自動車に乗車していた黄添発(死亡当時三十五年)西山良彦(死亡当時二十四年)及び前田昌扶(死亡当時十六年)の三名を胸部内臓挫滅等により即死させたものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

法律に照らすと判示被告人の黄添発、西山良彦、前田昌扶に対する各所為はいずれも刑法第二一一条罰金等臨時措置法第二条第三条に各該当するが以上は一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるから刑法第五四条第一項前段第一〇条にしたがつて最も犯情の重いと認められる黄添発に対する罪の刑によつて処断するところ所定刑中より罰金刑を選択して被告人を罰金一万円に処し、同法第一八条第一項によつて右罰金を完納しえないときは金五百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項但書によつて被告人に負担させない。

(被告人及び弁護人の主張に対する判断)

被告人及び弁護人は本件公訴事実につき、踏切手前で急停車し得るよう減速して進行すべき業務上の注意義務はなく、又仮に注意義務があるとしても、被告人はかかる教育を受けていないのであるからこの注意義務履行には期待可能性がないと主張しているので按ずるに、当裁判所が取調べた証人脇田克美は当公廷において、踏切警手が白燈を振つていない場合においても電車運転手としては何ら減速する必要はなく、南海電鉄株式会社においては日常の業務課程において運転手達に右のとおり教育している旨の供述をして居り、又証人小西啓介も当公廷において、警手の合図と信号機はその性質を異にし、警手の合図がされていない場合であつても危険物を発見しない以上電車を減速させる必要はなく、電鉄会社が運転手に右のとおり教育することは別段法規上の定めがないから違法ではない旨供述しているところから考えて会社の規則(運転規定)上運転手は踏切警手の白旗乃至白燈の合図がない場合であつても危険物を発見しえない以上減速の措置をとるべく要求されていないということはたしかに認められるところである。しかしながら、電車運転手たるものは自己の属する会社内部の規則を忠実に履行したのみでその注意義務を完全に尽したといえるものではなく、常にその場合、場合に適した判断によつて適切な措置をとるべき義務をかされていることはあえて論を俟たないところである。勿論、およそ危険を想定しうる踏切を通過する場合においてはいつ何時でも急停車しうるように減速措置をとるべきというが如き論は交通機関の著しい発展をみた今日における高速度電車の運行状況及びいわゆる無人踏切が数多く存在すること等に照して実行不可能に近く当裁判所もかかる見解に立つものではないが、本件事案における該踏切乃至電車の運行状況を各証拠によつて仔細に検討するに、該踏切は本件事故当時電車軌道と道路との見通し悪く、かつ、比較的交通量の多い踏切であつて、それがため南海電鉄株式会社においてもこれを第一種踏切として一番電車から終電車まで電車通過の際は常に踏切警手によつて遮断機が降ろされた上、警手が運転手に対し白旗乃至白燈を振つて合図をすることになつているものであつて、いわゆる無人踏切とは事情を異にするものである。このような第一種踏切において踏切警手が合図をしていないということは誠に稀有のことであり、かかる場合は警手側に何らかの異変があつて遮断機も通常のように降ろされていないことは当然予想されてしかるべきことである。元来この第一種踏切においては、それを横断せんとする車馬はその安全を遮断機の上降に依存する傾向強く、遮断機が上つている場合は通常安全とみて不注意に一旦停車を怠つたまま進行することが屡々あることは経験則上認められるところであり、電車運転手としてはこれも又当然予想してしかるべきといわなければならない。以上の如き事情が認められるかぎり、電車運転手が該踏切手前三百米以上の地点において踏切警手のなすべき白燈の合図がなされていないことを現認した以上、万一を予測し、減速措置をとつて進行する程度の注意義務は(その減速措置によつて更に大きな事故が発生する可能性があるというような特段の事情がないかぎり)たとえ会社の運転規則上かかる措置が定められていなくとも多数の人命を預つている電車運転手として当然要求されるべきところといわなければならない。次に、本件事故の際、被告人について右注意義務の履行を期待することができなかつたか否かについて検討するに、前記の如く被告人が南海電鉄株式会社において、第一種踏切通過の際に踏切警手からの白旗乃至白燈が振られていない場合であつても必ずしも減速措置をとる必要はないという教育をうけて来たことは認められるところであるが、会社における右の如き教育の趣旨は高速度電車の運行及びその輸送力の正常を維持するとともに減速措置によつて惹起する虞のある他の事故を防止するための一般的な原則論であつて絶対に減速措置をとつてはならないというようなものでないことは明らかであり、むしろ証人小西啓介の夜間の場合は見通しが悪いから危険物は接近しなければ見えないと思うとの供述からもうかがえるように電車運転手に対して具体的事情特に夜間の見通し如何等によつて適宜な処置をとるべきことを合せて要求していることはいうまでもなくすでに電車運転手として相当の経験を積んでいる被告人の充分理解しているとみるべきところである。しからば本件に関して単に会社において減速措置をとる必要がないという教育を受けて来たとの一事をもつて被告人が減速措置をとらなかつたことがやむをえないものであつたとはいえないし、又その外に、被告人について減速措置を期待することが不可能であつたというような事情は全然認められない。勿論、本件事故の原因は決して被告人の過失のみに基くものとはいえず、被害者たる自動車運転手が該踏切の横断に際して十分の注意を払わなかつたこと及び踏切警手が熟睡していて遮断機を降すことができなかつたこと等の原因が競合して発生したものであり、むしろそれらの原因の方が重大であつて電車運転手としての被告人の過失は、いわゆる信号機の注視を怠つた場合等の過失に比較して、軽度のものであるといわなければならない。かかる事情が量刑上十分斟酌されてしかるべきことは当裁判所も認めるにやぶさかではないが、さりとてこれをもつて被告人の刑事責任が免れるものでないことはいうまでもないところである。以上の次第により、本件に関し、被告人が該踏切の手前約三百三十米の地点において踏切警手からの白燈合図がなされていないことを現認しながら何ら減速の措置をとらなかつたことは刑法第二一一条にいう業務上必要な注意を怠つたというに該当するものであり、かつ、被告人にかかる注意義務の履行を要求することも期待可能であつたといわなければならない。よつて被告人及び弁護人の前示主張はいずれも理由がなく採用することができない。なお本件公訴事実中被告人が該踏切手前百五十米の地点から手前三十米の地点まで警笛の吹鳴さえしなかつたという点については被告人の当公廷における供述及び検察官に対する各供述調書、木岡虎三郎の証人尋問調書及び同人の検察官に対する供述調書等に徴しても充分に心証は得られなかつたので被告人の利益のために過失認定の資料に全然斟酌していない。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 喜島秀太郎)

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